“ ベローチェでティム・オブライエン「ニュークリア・エイジ」を読みおえた。この小説のなかで、主人公が60年代にはじめた最初のアジテーションのキーワードは「爆弾は実在する」だった。そして、それから数十年たち、彼は家の庭に穴(シェルター)を掘り、彼を気狂いだと言う妻と娘を睡眠薬で眠らせそのなかに放りこむ。愛しているんだと何度も何度も言いながら。
我々は核爆弾のある世界に産まれた最初の世代だった。(中略)一九六〇年の春には、どのコミュニティーも防空壕を作るべきだという考えに、人々の七十パーセントが賛成だった。一九六一年の秋には五十三パーセントが、五年以内に世界戦争が起こるだろうと考えていた。
世界はメタファー中毒にかかっているね、と僕は思う。メタファーは我等が時代の阿片なのだ。誰も恐れない。誰も穴を掘らない。人々はリアリティーに音韻の衣を着せ、化粧を施し、それをお洒落な名前で呼ぶ。どうしてみんな穴を掘らないのだ? 核戦争。それは何かの象徴なんかではない。核戦争 ——と口にするのがそんなに恥ずかしいかい? それはあまりにも散文的すぎるかい? 直截的にすぎるかい? 聴けよ。——核戦争——そのごつごつとして耳障りで陳腐で日常的な音節を。僕は大声で叫んでやりたいと思う。核戦争!と。この世界における恐怖はどこに行ってしまったんだ? 大声で叫べ、核戦争!と。足をふんばって叫びつづけるのだ、核戦争!と。核戦争!
わたしが言えることはおおくない。彼が正気なのか、狂気なのか、そのことを決定することにたいして価値はない。それはひとりひとりがひきうける問題で、わたしが言うことじゃない。想像しようよ。わたしのいちばんたいせつなひとから「日本は放射能に汚染されたからこの国を捨てて海外に逃げようよ」とまじめに言われたとき、わたしがそれについてどう思うことができるのか。笑わないでいてあげることが、わたしにできるのか。被災地のひとが移住を余儀なくされそれについて考えるとき、わたしたちはそれを想像力だけで埋めあわせることができるのか。想像できなかったら? どうして想像できないんだろうか。そして、それを想像できないわたしはにんげんとしてくずじゃないのか?”
- 「シュルレアリスム展」@国立新美術館|首吊り芸人は首を吊らない。
我々は核爆弾のある世界に産まれた最初の世代だった。(中略)一九六〇年の春には、どのコミュニティーも防空壕を作るべきだという考えに、人々の七十パーセントが賛成だった。一九六一年の秋には五十三パーセントが、五年以内に世界戦争が起こるだろうと考えていた。
世界はメタファー中毒にかかっているね、と僕は思う。メタファーは我等が時代の阿片なのだ。誰も恐れない。誰も穴を掘らない。人々はリアリティーに音韻の衣を着せ、化粧を施し、それをお洒落な名前で呼ぶ。どうしてみんな穴を掘らないのだ? 核戦争。それは何かの象徴なんかではない。核戦争 ——と口にするのがそんなに恥ずかしいかい? それはあまりにも散文的すぎるかい? 直截的にすぎるかい? 聴けよ。——核戦争——そのごつごつとして耳障りで陳腐で日常的な音節を。僕は大声で叫んでやりたいと思う。核戦争!と。この世界における恐怖はどこに行ってしまったんだ? 大声で叫べ、核戦争!と。足をふんばって叫びつづけるのだ、核戦争!と。核戦争!
——ティム・オブライエン/ニュークリア・エイジ
わたしが言えることはおおくない。彼が正気なのか、狂気なのか、そのことを決定することにたいして価値はない。それはひとりひとりがひきうける問題で、わたしが言うことじゃない。想像しようよ。わたしのいちばんたいせつなひとから「日本は放射能に汚染されたからこの国を捨てて海外に逃げようよ」とまじめに言われたとき、わたしがそれについてどう思うことができるのか。笑わないでいてあげることが、わたしにできるのか。被災地のひとが移住を余儀なくされそれについて考えるとき、わたしたちはそれを想像力だけで埋めあわせることができるのか。想像できなかったら? どうして想像できないんだろうか。そして、それを想像できないわたしはにんげんとしてくずじゃないのか?”
- 「シュルレアリスム展」@国立新美術館|首吊り芸人は首を吊らない。