“わたし自身のことをいうと、ここ数年、よく練られた“ワールド・ミュージック”であればあるほど受け付けなくなっている。むしろ、このカリンボーのように作為的でない民俗音楽に近い素朴な音楽に惹かれる。
思えば、90年前後の「ワールド・ミュージック・ブーム」の時代にもてはやされた音楽は作為そのものだった。わたしもそういうものとして受けとめていた。だが20数年の世界音楽の旅のすえに、わたしは『真実』の最後でとうようさんが行き着いたのと同じ場所に立っていた。
「何でこんな音楽に心を揺さぶられるのだろうか?」考えてみた。そしてたどり着いた結論が、それらには強欲や虚栄心のない「ただ生きている」というむき出しの生が感じられるからということだった。
とうようさんもきっとそのように感じておられたはずだろうに、自分自身については「ただ生きている」ことに我慢ならなかったのだろうか? 自分で自分の 生(死)をコントロールするとはそういうことだろう。それはあなたが批判したクラシック音楽やジャズの病理そのものではないか? それは三島由紀夫の最期 に似て、すこしも美しくない。”
- Franco Main
思えば、90年前後の「ワールド・ミュージック・ブーム」の時代にもてはやされた音楽は作為そのものだった。わたしもそういうものとして受けとめていた。だが20数年の世界音楽の旅のすえに、わたしは『真実』の最後でとうようさんが行き着いたのと同じ場所に立っていた。
「何でこんな音楽に心を揺さぶられるのだろうか?」考えてみた。そしてたどり着いた結論が、それらには強欲や虚栄心のない「ただ生きている」というむき出しの生が感じられるからということだった。
とうようさんもきっとそのように感じておられたはずだろうに、自分自身については「ただ生きている」ことに我慢ならなかったのだろうか? 自分で自分の 生(死)をコントロールするとはそういうことだろう。それはあなたが批判したクラシック音楽やジャズの病理そのものではないか? それは三島由紀夫の最期 に似て、すこしも美しくない。”
- Franco Main