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私は本書から思想的な意味で一撃を受けたのはこの原則だった。それが正しいというのではない。思想とは、正しい何かを信奉することではなく、人類に真に 思考せしめる課題のことである。原発が水道施設のような公共施設であるということはどういうことなのか。それが可能である社会とは何か。技術の側だけでは なく、それによって作られる人類社会をどう構想するか。
筆者はこのテーマをこう補足している。
私が加えるなら、電力事業は巨大であるために国家と接合し、そして従来の原発はその集団の地位を保つために巨大化してしまった。
市民社会が国家より優位にあるためには、こうした装置を市民社会の側に移管できるまでに縮小化しなしなければならないという思想的な課題も明確になってくる。”
- [書評]原発安全革命(古川和男): 極東ブログ
本書が書名「原発安全革命」の「革命」たる点は、トリウム炉の技術もだが、原子炉というものを市民社会のなかにどう位置づけるかといことを明瞭にしている点である。
発電所は公共施設であり、特殊目的の工場ではない。いうなれば水道施設のように、町役場などで単独で管理できるようなものでなければならない。
私は本書から思想的な意味で一撃を受けたのはこの原則だった。それが正しいというのではない。思想とは、正しい何かを信奉することではなく、人類に真に 思考せしめる課題のことである。原発が水道施設のような公共施設であるということはどういうことなのか。それが可能である社会とは何か。技術の側だけでは なく、それによって作られる人類社会をどう構想するか。
筆者はこのテーマをこう補足している。
しかし、原発の実態はそれからあまりにかけ離れ、みな人里離れた僻地の砦のような存在である。逃げる(?)から疑心が追いかけていくのである。当事者側も市民側も、この矛盾をまず抜本的に改善すべきだとは認識していないようである。
私が加えるなら、電力事業は巨大であるために国家と接合し、そして従来の原発はその集団の地位を保つために巨大化してしまった。
市民社会が国家より優位にあるためには、こうした装置を市民社会の側に移管できるまでに縮小化しなしなければならないという思想的な課題も明確になってくる。”
- [書評]原発安全革命(古川和男): 極東ブログ